支度を整えて白衣を纏うと、講義の準備を始める。
今日は新入生への最初の授業だ。
理玖が担当する『内分泌内科・第二の性WO』の授業も、今日から新たにスタートする。
コンコン、と部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
短く返事すると、案の定入ってきたのは准教授の折笠悟だった。
「おはよう、向井君。今年も大学に残ってくれて、嬉しいよ」
歩み寄った折笠が理玖の肩に手を掛けた。
無意識に体が一歩後ろに下がった。
折笠は常に距離感が近い。パーソナルスペースを無視した接近をしてくるので、苦手だった。
「いえ、理研からの辞令ですから。折笠先生が希望してくださっていたのは、知っていますけど」
希望というか、ゴリ押しに近いだろうなと思っていた。
国立理化学研究所・自然科学科健康増進室に勤務している理玖を慶愛大学に呼んだのは、折笠だ。折笠悟は元々、理研の職員で、新人の頃に世話になった先輩だ。
慶愛大学の准教授に就任してからはラブコールが絶えず、断り続けていたら理研側から手を回してきた。
理研も渋々といった具合に理玖の一年の出向を決めた。
一年だった出向の予定が三年まで延長になったのも、折笠が手を回したのだろうと思った。
(どういう手段を使ったのか知らないけど。まぁ、理研に居た頃より良い条件で研究させてもらえているから、場所なんかどこでも構わないけど)
理玖としては、目下の問題は折笠悟自身だ。
とにかくしつこいし、距離が近い。
何より厄介なのは。
「俺はnormalだから、向井君に触れても発情しないよ。そんなに気にしなくていいと思うけどな」
折笠が、理玖の肩から放した手を大袈裟に上げた。
「抑制剤は飲んでいますから、フェロモンも絞られてます。onlyの性的興奮フェロモンで発情するotherにも個体差がありますから」
毎回毎回、同じように触れて同じような会話を振ってくる折笠が苦手だ。
理玖がonlyであると知られているのも、弱みを握られているようで嫌だった。
「薬品関連は向井君の方が専門だね。論文は順調? 次の学会はゲストで呼ばれているって聞いたけど」
折笠のいう学会は国際WO研究会の定期学会だ。国際WO連盟が主催する学術会であり、WO関連学会の中で最も規模が大きく、名を連ねる専門家の数も多い。理玖も連盟に所属している。
今年は日本で開催されるため、理玖はゲストとしての参加が既に決まっていた。
「学会は十月ですが、ある程度は形になっています。今年は二つくらい出せそうかなと思っていますけど」
折笠が感心して頷いた。
「相変わらず、熱心だね。natureにも論文をせがまれているんだろう? そっちは書き終えたの?」
理玖は頷いた。
随分前に交わした会話なのに、よく覚えているなと思う。
「六月号と八月号分なので、既に提出してますよ」
理玖は小さく息を吐いた。
ちょっと疲れてきたので、無意識に溜息を吐いたようになってしまった。
「世界の認識が共通化して百年にも満たない第二の性WOについて、向井君より秀でた研究家はこの日本にはいないだろうね。その若さで大したものだ。やっぱり君自身がonlyだから、というのが大きいのかな」
一瞬、頭を突き抜けた怒りを、理玖は懸命に収めた。
確かに日本において、理玖より優れたWO研究家はいない。
(onlyだから何だっていうんだ。実感としてわかるとでも? ホルモンや脳科学物質の介入を体感で実感できる生命体がこの世に存在するとでも?)
とは、言いたいが、言わない。
日本には折笠のような性格の研究家は少なくない。
羨望や嫉妬を負の感情に任せてぶつけてくる狭量な人間が多すぎる。
十五歳でロンドンに渡り、大学院で博士までを収めた理玖にとっては、日本の研究界隈はかなり閉鎖的で因習めいて映る。
帰って来なければ良かったと、時々思う。
「onlyである事実は、隠すようにね。最近はonly狩りをする集団なんかもいるらしいから、気を付けて」
折笠がまた理玖の肩に手を乗せた。
逃げようとする理玖の耳に顔を寄せてきた。
「俺は昔から向井君が欲しいと思ってるよ。normalだし、遊ぶにしても安全だろ。気が向いたら声を掛けてよ。気紛れで構わないからさ」
言いたい言葉だけを一方的に伝えて、折笠が部屋を出ていった。
妻子のある折笠はバイらしく、前々から理玖に同じ誘いをかけてくる。
それが何より鬱陶しかった。
「僕がゲイじゃなかったら、どうするんだよ。onlyは全員、バイだとでも思ってるのかな。ていうか、あの人が一番、僕がonlyだって触れ回りそうな気がする」
疲れた顔を両手で覆いながら、理研を通して注意喚起してもらおうと誓った。
「二人には他にも、栗花落さんを守ってもらう仕事があります。彼にはRISEに潜入捜査してもらいますから」 國好が、あからさまに顔を顰めた。「理玖さん、流石にそれは酷すぎます。あの状態の栗花落さんをRISEに行かせるなんて」 鈴木のフェロモンに犯されて意に反した決断をしていた栗花落を、國好の名を呼んでいた栗花落を、理玖は見ていない。 あの姿を見たら、そんな提案はできないはずだ。「恐らく、正気を戻した栗花落さんは自分からRISEに行くでしょう。退職届を出してね。僕は栗花落さんを失う気はない。今の彼が出来得る仕事を宛がうべきです。RISEへの違和感のない潜入は、今の彼にしかできません」 理玖は國好を見詰めた。 國好の顔に戸惑いが浮いている。「しかし、鈴木のフェロモンで正気を失えば、臥龍岡の操り人形になりかねません」「それも込みです。RISEには佐藤さんがいます。本気の犯罪に栗花落さんを巻き込みはしません」 國好の顔から、否定の色が消えた。「恐らく、RISEでの栗花落さんの扱いは人質止まりです。臥龍岡先生が栗花落さんを連れ戻したい本当の理由は、彼の口から実体験が語られることの阻止。リアルな現実をこれ以上、僕らに知られないために、栗花落さんに自分の意志でRoseHouseに恭順させたいんです」 晴翔は、鈴木とのさっきのやり取りを思い出していた。(栗花落さんを通して理玖さんに、ある程度の情報を得させようとしたけど、思った以上に栗花落さんが突っ込んだ事実を知っていて、それを理玖さんに話してしまったから。これ以上は放置できないと考えたのか) 秋風から栗花落礼音の存在を聞いて調べるのは臥龍岡にとっては簡単だ。 晴翔を呼び出す前に、栗花落をレイ
「小林君のスパイ活動のお陰で、色々知れて助かったよ。恐らく秋風君は今も鈴木君のフェロモンで夢の中だ。そうなると予想していたから、昨日のうちに小林君に助けを求めた。小林君が蘆屋先生にヘルプするとも予想していたでしょうね」 小林が満足そうに得意げな顔をした。 理玖の目が蘆屋に向く。「折笠先生なら、どうすると思いますか?」 理玖の問いかけに、蘆屋が頭を掻いた。「放ってはおかないだろ。折笠にとって臥龍岡先生も圭も大事な愛人だ。薔薇の園の呪いを解くために自殺したのに、これじゃ死に損だからね。まだ死んでないけど」「どういう意味です?」 眉間に皺が寄ったのに、自分でもわかった。「RoseHouseやマザーの教えっていう呪縛を解いてあげたかったんだってさ。孤児とはいえ施設の子供に人殺しさせようとする躾が正しいわけないだろ。だから死んで、わからせてやろうと思う、とか言ってね。いつもの冗談だと思って聞き流したけど、まさか本気だったとは俺も思わなかったよ」 蘆屋の話し方は怠そうだが、表情が悲痛で、晴翔は息を飲んだ。(臥龍岡先生や鈴木君が安倍忠行のクローンだってことも、RoseHouseの実態も、蘆屋先生は知らないんだ。だから孤児って思ってる。いくら友人でも、流石にそこまでは話さないか) 本人たちが間接的な協力者といっているくらいだ。 核心に迫る話はしなかったのだろう。(安倍晴子は自分の子に人殺しをさせようとした。事実はさらに重い) 頼りにしていた大事な人を失っても、臥龍岡は止まらなかった。 目は醒めていないのだろう。 蘆屋がこうして動き出したのも、聞き流してしまった自責なのかもしれない。
「昨日、秋風君に? もしかして、栗花落さんのこと?」 それはつまり、秋風が今日の作戦を悩んでいた証であり、RISEのやり方に疑問を持っている証だ。 小林が眼鏡を上げながら深く頷いた。「秋風はこのままRISEにいるべきか、迷っています。だけど、抜け出せない。彼のしがらみは、髪の毛についてしまったガムよりしつこい。もしくは難易度マックスの知恵の輪です」 分かり易いが、その例えはどうだろうと思った。「小林君は昨日、秋風君にこう相談されたそうだよ。もし自分が栗花落礼音を犯してしまったら、向井先生に助けてって伝えてほしいって」 理玖が小林の話を補足してくれた。「秋風にとって、栗花落さんは大事な友達だそうです。だけど、同じくらい臥龍岡先生や圭が大事なんだそうです。味方でいたいけど、栗花落さんを巻き込むようなやり方だけはしたくないと、そう言っていました」 小林の話に、晴翔は唇を噛んだ。「臥龍岡先生なら、栗花落さんに手を出してくるだろうと、僕は考えていたけど。秋風君にとって、栗花落さんが最後の一線だったようだね」 理玖の言葉に余計、心が詰まった。 秋風もまた、自分の心を潰してRoseHouseに貢献している。「盗聴器やICレコーダーは、その為に?」 晴翔は蘆屋を振り返った。「小林君がやってみたいって、しつこいからさぁ。自分のサークル室に仕掛けるなら違法じゃないし、あくまで遊びのつもりでね。まさか今日の午前中にあの場所でセックスしたり脅迫めいた話をする人がいるなんて思わないだろ」 ふいっと顔を逸らして、蘆屋がべっと舌を出した。「ジェームズ・ボ
部屋の中に入ると、理玖と國好が待機していた。 思わず気まずくて、目を逸らしてしまった。「理玖さん、國好さん……、勝手に動いて、すみません」 歩み寄った國好が、晴翔の背中から栗花落を降ろした。「いいえ。白石襲撃に続き、大事な時に場を離れた俺の失態です。すみませんでした」 栗花落を抱きかかえたまま、國好が頭を下げた。「いえ……。國好さんが理玖さんに付いているって知っていて、俺が出ていったんです。もう少し早くに戻られていたら、俺が困ってました」 理玖に付いていた國好が晴翔を迎えに戻ってから一緒に講堂の片付けに向かう予定でいた。 タイミングとしてはギリギリだったろう。 國好が悔しそうに首を振った。「しかも空咲さんは栗花落を助けるために向かってくださった。警察官が一般人に迷惑をかけるなど、言語道断です」 國好が悔しそうに栗花落を見詰める。 栗花落の顔に理玖が手を伸ばした。「僕のフェロモンがもう少し効果があれば良かったんですが。二日も経つと流石に無理だったみたいだね」 フェロモンは短時間で単発的な効果しかないと、理玖は前に話していた。 中々フェロモンが効かなかったと話していた鈴木の言から考えれば、理玖が保険でかけた鎮静フェロモンが全く効果がなかったわけではないのだろうが。助けるには至らなかった。「俺と会う前に鈴木君のフェロモンを相当、吸わされたみたいで。その影響で栗花落さんは警官をやめてRISEに入ると、RoseHouseを守ると話していました」 國好の顔が更に悔しそうに歪んだ。
理玖に頼まれて七不思議解明サークルについて調べていた晴翔が、ギリギリ覚えていた情報。 顧問の蘆屋道行はnormalで、医学部の教授であること。 サークル長の小林裕真はonlyで、RoseHouse出身者で秋風と仲が良いこと。 その他のサークル員四名はRoseHouseとは関わりがないWOだったこと。 「どうして蘆屋先生が、ここに……」 鈴木との話し合いが終わった頃合いでやってきて、理玖に電話連絡をしていたことも。 ICレコーダーを手にしている状況も、全くわからない。 混乱する晴翔に向かい、蘆屋が指をさした。「とりあえず、ずらかるから。その子、背負って一緒に来い。この部屋、鍵かけにゃならん」「はい……」 敵なのか味方なのかも、よくわからない。 だが今は、言う通りにするしかない。 蘆屋に手を借りながら栗花落を背負うと、晴翔は部屋を出た。「俺が君らを見付けて部屋に鍵を掛ける分には問題ないんだよ。今のこの状況なら、君が俺の部屋にその子を連れてくるのも、特に問題ないだろ、多分」「はぁ……」 蘆屋がICレコーダーを晴翔に手渡した。「あの部屋はねぇ、盗聴器ついてんだよ。だから君らが何を話していたか、俺は知ってるんだけど。それを圭は知らない」「どうして、そんなもの……。七不思議解明サークルはRISEじゃないんですか?」「違うよ」 蘆屋がにべもなく否定した。「違うけど、そうでもある。だから、会話の内容は、君が望むなら向井君に内緒にするけど、どうする?」「どう、って。この状態で戻ったら、どの
うつらうつらと寝こける栗花落を抱いて、晴翔は困っていた。 栗花落を理玖の所に連れていけば、鈴木圭のフェロモンを中和してもらえる。 だが同時に、今起こった事態を説明しなければならなくなる。(秘密にしないと、栗花落さんがまた狙われる。今夜の約束も、話せない) とはいえ、いつまでもこの部屋にいるわけにはいかない。 第一研究棟103号室は七不思議解明サークルのサークル室だ。 DollとRISEの協力者と思われる七不思議解明サークルに関わる場所に長居は危険だ。(いくら鈴木君から仕掛けてきたとはいえ、いや、だからこそ危険か。あの得体のしれない感じ、秋風君とは違う意味で違和感だ) 晴翔が知っていた鈴木圭とは明らかに違っていた。(普段は演技で、あの感じが性根なんだろうな。臥龍岡先生にそっくりだ) 人の心の内面まで見透かしたような、その上で掌の上で転がしているような笑い方や話し方、余裕ぶった表情。人当たりが良さそうに笑いながら人を値踏みしている目。全部が気持ち悪い。 窓の外に人影を感じて、見上げた。 清掃員姿の男が背を向けて掃除をしていた。 鍵を開けて、窓を薄く開く。「今日から栗花落さんに一人、付いてくれるか。今夜は理玖さんにも手厚く。一人は俺に」 清掃員が帽子のつばを握って被り直すような仕草をした。 掃除しながら、少しずつ離れていった。(まさかSPがバレていたとはなぁ。素人だからって甘く見ちゃダメか) 理玖に危険が及ばないよう、あくまで身辺警護の意味合いで呼んだSPだ。 身分を明かす前から入れているので、理玖にも警察にも話すタイミングを失ったまま、今に至っている。